（８）

「碧雲ちゃん！赤雲ちゃん！！大丈夫か？！」
「うっ……」
土行孫が、苦しそうな碧雲と赤雲を揺さぶる。楊ゼンが腰を落として二人の様子をうかがった。姫発は立ちつくしたままだった。なんだかさっぱり判らない。
「すぐに医者に連れて行かないとまずいですね、これは」
「…っていうか、アンタ何者？」
今更ながら姫発は若い侍、楊ゼンに声をかける。
「ああ…僕は、その。まあ、ちょっと…」
「とりあえず名前」
「楊ゼンです。詳しい話は、また後で…姫発殿」
「へ？」
姫発は面食らった。なんでこいつ、俺の名前知ってるわけ？
「とりあえず僕の知り合いの医者に行きましょう。そこなら大丈夫です」
「あ、ああ…」
三人はなんとか、碧雲と赤雲を運んだ。途中で籠を拾い、二人を乗せ、楊ゼンなる男のいう医者の元へ走る。
楊ゼンが告げた医者の名前で、また姫発は驚いた。
「あの、太乙先生と雲中子先生のところへ」
「ええええっ？！」
「ああ…ご存じですか？でも、腕はいいんですよ、ああ見えて」
「あ、うん、まあ…」
太乙と雲中子は、天化の師匠である道徳の、つまりは天化のお隣さんの問題医者だ。姫発は一度手当てして貰ったことがある。その腕は多分まともなのだと思った。
けどあの連中は人体実験と噂を立てられて、実際「自分の体を張って」人体実験をしているような二人で、はっきり言ってまともな評判は聞いたことがない。
姫発は、楊ゼンと名乗った、謎の侍をじっと見つめた。
こいつ一体何者なんだろう……？
しかも、俺の事知ってるし。

楊ゼンは姫発の目線を感じたらしい。姫発の方を向くと、愛想良くにっこり笑った。
「どうして僕が貴方の名前を知ってるか、不思議そうですね」
「つーか…」
「後でゆっくりお話しますよ」




「ほお、それでその後どうなった」
騒ぎの翌日。昨日と同じお団子屋で、太公望と楊ゼンは密談を交わす。昨晩の顛末の報告だった。
碧雲と赤雲は、太乙と雲中子の手当でなんとか助かった。土行孫は大人しく店に帰った。呂岳を取り逃がしたのは痛恨事だった。碧雲と赤雲から黒薔薇の居所をなんとかつかみたいところだったが、二人はそこまで詳しく知らされてはいないらしい。
二人は呂岳にしか会ったことがなく、賊の他の人間は全く知らないと言う。

「碧雲と赤雲の姉妹は無事です。あの二人も相変わらず問題医者ですが、なんとかしてくれましたよ」
「呂岳は逃がしたか」
「申し訳ありません。油断しました」
楊ゼンは頭を下げる。やられた、と思った。
「まあ仕方あるまい、人命最優先だ。気にするな、楊ゼン」
太公望はお茶をすすりながらそう言った。
「しかし黒薔薇の動きは…」
「呂岳の人相書きを作っていま、探させておる」
太公望はそこで茶を置いて、楊ゼンを見た。
「…ところで、伯邑考の弟に会ったと言ったな」
来たか、と楊ゼンは思う。つい居住まいを正した。きちんと順を追って説明する。
「はい。なんでも、土行孫と偶然知り合って、姉妹の話を聞いて意気投合したそうです」「ほお」
「それで一緒に例の現場に来たというんですから、面白い巡り合わせですよ、まったく」
その上、楊ゼンが姉妹を連れて行った太乙と雲中子とも姫発は知り合いだったのだ。
これは楊ゼンの方が驚いた。なんでも姫発は、診療所の隣の剣術道場に住む魚売りと友達で、太乙や雲中子とも顔を合わせたことがあるのだという。
「意外なところでつながりがあるものですね」
楊ゼンの声に、太公望も感心したように頷く。
「問題医者二人の隣の剣術道場というと、道徳という男か。あれは確か、お主の師匠の玉鼎とも知り合いではないか」
「…本当に、意外なところでつながっていますよ」


「で、どんな男だ？」
太公望は楊ゼンに問う。
勿論、姫発についてだ。伯邑考の弟。姫昌の次男。
「どんな、と言っても…」
楊ゼンは考えあぐねる様子だった。一度お茶でのどを潤してから言葉を続ける。
「いかにも素直そうな人ですよ」
「………」
「切れ者と評判の姫伯邑考が、ああいう裏も表もないような弟を密偵にするというのは、考えにくい話です」
楊ゼンの分析はそんなふうだ。それを聞いた太公望の考えは逆で、裏も表もないような弟だからこそ、もしかして使い勝手がいいのかもしれない。
多分こうだ。伯邑考の狙いは今ひとつ読めないが、「自分の狙いを読ませないこと」が、あの男の狙いのひとつでもあるのだろう。
「その姫発とやらに、お主の素性は明かしたのか？」
「話の流れでね、奉行所の人間です、という感じに。なんとなく察してくれましたよ」
姫発は素直に帰っていった。ご丁寧に彼は、楊ゼンに、自分の住んでいる裏長屋を教えてくれた。こっちはとうに調べをつけているところなのに、まったく、あの姫発という若者は、本当に素直な人間だ。



いっぽうそのころ、黒薔薇の隠れ家では、呂岳がお頭に向かって、ひたすら頭を下げていた。
「趙公明様、申し訳ありません！！あの憎き太公望の手先が横槍を…！！」
「仕方ないね…太公望クンもなかなかやる。僕の狙いはお見通しだったわけか」
「ひらにご容赦を！！」
へへーっと呂岳は手をついて詫びを入れる。土行孫を脅迫して大店を狙う計画も頓挫し、碧雲と赤雲は奉行所の手に渡った。あの二人は黒薔薇については他に何も知らないから、この隠れ家が割れる心配はないが、それにしても呂岳自身は身を隠さないわけにはいかない。大失態だった。
「…けれど太公望クン」
趙公明は、薔薇を片手に天井を見上げる。悦に入ったような表情で、好敵手に向かって語りかけた。
「僕の真の狙いは江戸の大店なんかじゃない。江戸城の妲己ちゃんも狙っているお宝だ…」
趙公明はそこで卓の上に置かれた硝子の器を持ち上げて、くいっと葡萄酒を飲み干す。
「君は僕を阻止できるかな？」