「王サマおはようさー」
「おう、って……あれ？」
耳慣れない足音に姫発が廊下で振り向くと、天化の目線がちょっと低かった。
下を見ると、いつもの黒いブーツではなく、裸足にビーチサンダルという足元だ。
「どーしたんだよ、かかとでもとれた？」
「違うさ」
天化はスタスタとサンダルを鳴らして執務室へ入ると、ソファにどさっと座り込んだ。ブーツを履いてないだけで、他はいつもの格好だ。
と、右足からビーチサンダルを振り払い、くるぶしの辺りをやたらに引っ掻く。
「起きたら蚊にくわれてたさ！」
夏が来れば蚊も飛び交う。梅雨空け間近いある夜更け、羽音かそけき蚊の一匹が、武成王邸へ迷い込んだ。
崑崙に蚊はいないそうだ。油断したさ、と天化は悔しそうで、しかしかゆそうにバリバリと掻く。
「掻いたら余計かゆくなるって。薬塗ったのかよ？」
「塗ったけどかゆいさー」
天化は右膝を曲げて胸に引き寄せ、もう片方の足は床にたらしている。ジーンズの裾から足首が覗いて、地は白いんだなーと何となく思う。いつも日に晒している上半身は気持ちいいくらいの小麦色だったけど、足は指先までほの白い。
「なにさ？」
「え。そのジーパン、膝から下んとこ色違うよなー」
「上の方は日焼けしちまってるさ」
滑らかに目の詰んだ肌の上を、天化は短く切った爪でお構いなしに掻きむしる。
「あのさぁ、もいっかいクスリ塗ってみろよ？今とってくっからさ」
姫発は身軽に席を立つと、数階下まで降りて行って、救急箱からキンカンを調達して帰ってきた。
「ほら」
「悪りぃさ」
フタを回して茶色い瓶を手渡す。真面目な顔で天化は薬を塗る。
見ると、一握りで指が届きそうな細い足首のくるぶしが、ポツンと赤く腫れている。こいつ関節細いもんなー、この足ですげー高さから飛び降りたりすんだからマジで恐えーよな…などと関係ない感想が脳裏に浮かぶ。
華奢な足首の先に付いている足は、思ったほどは小さくない。
「お前さあ、足何センチ？」
「へ？さあ」
「足でかいヤツってさー、背もでかくなるってゆーじゃん。道士だったら途中で止まってんだろ？」
「そりゃあ、オヤジがあれだかんね」
薬でかゆみが治まったのか、天化はよっとあぐらをかいた。背中を丸め、身を乗り出して前のテーブルから灰皿を取る。短い上着から背骨が覗く。
腰なんかいつも見慣れてる。足首から先は見たことがない。親指の付け根に硬そうなタコがある。
天化は灰皿を脚に載せて身を起こすと、指を伸ばしてやっぱりくるぶしを掻いた。
「掻くなって」
「かゆいさー」
左足の甲に傷痕がある。蚊に喰われたトコは血が出そうになってる。土踏まずは軽々とアーチを描く。
イヤ、きれーな足じゃん？きっと天化のコトだから、アキレス腱切ったりとかしてそうだよな。健やかに引き締まった腱の辺りへ、視線を移したところでハタと気づいた。
この足だろーがっ！！ 人のコト容赦なく蹴っ飛ばしやがんのはッッ！！
そう思ったら遠慮がなくなって、天化がひっきりなしに掻いている足首を、腕を伸ばしてがしっとつかんだ。くるぶしを手のひらで覆い隠す。
「いーから掻くなっ！」
「か、かゆいさっ」
天化は慌てて膝を浮かせて、足を引こうとした。逃すまいとしてしっかり握ると、一握りで指が余ってしまう。
「百数えるからガマンしろよなっ？ぜってぇかゆくなくなるから！」
「一、十、百！……とかダメさ？」
江戸の仇を長崎でとるというやつかもしれない。じたばたともがく足先を、足首のところでしっかり抑えて、百五十までゆっくり数えた。
「王サマ」
「え」
二百十までいったとき、天化はぴたっと動きを止めて姫発の顔を覗き込んだ。
「かゆくなくなったみてーさ」
「え、そう？」
「ありがとさ」
姫発は言われて力を緩め、足首から手を離した。天化は煙草をひょいと上へ向けて晴れやかに笑うと、もう一度念を入れてキンカンを塗った。
──昼休みの後、天化はブーツを履いてきた。
こんなコトってあるんだろうか？
天化がブーツを履いたぐらいで不意打ちでガッカリするなんて。でも今日は、裸足でいるんだと何となく思っていたのだ。
要するにかゆくなくなったんだよな…そりゃ本人がそう言ってたし。
薬なんか持ってくんじゃなかったぜっ。胸の内で思いがけず舌打ちが出る。ビーチサンダルが目の前でチラチラした。
日記にあった足フェチ設定です。こう足首にキスとかそーゆー方向へ持って行きたかったんですが、フェチに終始してしまいました（爆）